「優秀」という魔物
裕也、
色々考えてるの。
今の、比較的落ち着いた精神状態で裕也と出会っていたら、私、もっと素直に裕也と向き合えた気がする。
今、自分を軸に、人間関係に振り回されないで、やりたいように過ごしてるの。
必要な友達と会い、ちょっとでもストレスがかかる友達とは適度に距離を置き、家族とは絶縁状態だけれど、放っておいてもらえることで、自分が見えて気がしてる。
それって、人と関わっていないから、可能なんだろうね。
人と関わるほど、標準が何においても波風立たなくて。
お互いに平穏でいられる。
他人の基準に合わせる必要がなくなる。
気楽。
だけど、やっぱり、高校時代や大学時代には、難しいかな。
人と繋がっていなきゃやってられないもんね。
裕也もその点、苦労したよね。
目立ってたもん。
私はね、
裕也や裕也の家族に居心地の良さを感じるもうひとつの理由を見つけたよ。
「優秀」
って言わない。
先生の娘
という色眼鏡で見ない。
私がどんな選択をしようと、
ありのままの私を受け入れてくれているから。
比べないし、
頑張れを要求しないし、
否定もしない。
先生の娘だから、という理由で、
「優秀」という言葉が魔物のようにつきまとっていたそれまでの息苦しさが急になくなったんだった。
一回だけ、
裕也の親戚の家にお邪魔したときに、
厳しいという、おじいさんに
親は何やってる?
どこの大学に行く?
と聞かれて、高揚感と違和感を同時に感じたのは、先生の娘、優秀、という魔物がそのとき、また現れたからなんだと思う。
全然厳しくないじゃん。
楽勝だったじゃん。
って。
肩肘張らなくてもいいんだ、
肩書きじゃないんだ、
って、
裕也も裕也の家族も私に教えてくれてるんだよね。
ようやく、今になって気付いたよ。
「ちあきちゃんは、ちあきちゃん」
って裕也のお母さんが6月に言っていた言葉の意味がやっと分かったような気がする。
文字面だけじゃない。
私があの言葉にものすごく救われた理由。
あの頃、私の基準は、何の疑いもなく、周りの色眼鏡に作られていたから。
だから、
すごい、と想像していたように過大評価されないことに
物足りなさを感じたんだろうね。
出来ないことを隠したい恥ずかしさも受け入れてもらってるのに、
隠したい一心だったんだよね。
そう、今なら分かるのにな。
ここまで俯瞰して物事を捉えられるようになったんだよ。
本当に、今、この状態で、裕也に会いたい。
私、私のままでいるから。